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2006年12月29日 (金)

幸せのゼリー

「心がなごむ秘密の話 力を抜いて生きる実例集」

小林正観著 宝来社刊

「幸せのゼリー」


ある宿で1年に1回か
2回の講演会が開かれています。

そこで、私がエレベーターの前で
待っていたら、


ちょうど目の見えない人の
集まりがあったみたいで、


白い杖の人が2人降りてきました。
そして、ドアが開いて、


周囲を触りながら、
「えーっと、


どなたかホテルの人はいますか」
と声を出しました。

私の後ろに、
ちょうど荷物を押している
ホテルの係の女性がいました。

その方が、「はい」と答えました。


それから、この2人は、
「○○の湯というのはどこにありますか」
と聞きました。


私が振り返って見たら、
この女性は


「あっちです」と
指を差して言いました。



指の先に看板があって
「○○の湯」の矢印が書いてありました。


「あっちです」
という声が聞こえてから、


この2人は、
「ちょっと肩を貸してくれませんか」
と言いました。


「えっ」という小さな声があって、
このホテルの人が初めて振り向いたら、

目の見えない白い杖を持っている人でした。
ホテルの人は

「あ、すみません」と言いながら、
この2人に近寄っていきました。

そして、お互いに
他の人の肩に手を当てながら、


3人が並んで歩き始めました。
私はその光景を見ていて感じたことが
あります。

私は目が見えなくなったことは
ありません。


目の見えることが当たり前で、
「看板はあっちです」と言われたら、

「ああ、あっちなんだな」
とすぐわかります。

でも、「あっちです」
と言われたことは、

目に見えない人に
とっては当たり前のことではなかった。


目が見えない人は、
連れて行ってもらわないと
行けないのです。


生まれてから
一度も目が見えたことがない人がいます。


目の見えない人は、
「自分の親を1秒でもいいから
見てみたい。


死ぬまでに一度でいいから、
一瞬でも、


0.1秒でもいいから見てみたい」


「結婚した相手の顔を
1秒でも0.1秒でもいいから見てみたい」

「自分の子供の顔を1秒でも
0.1秒でもいいから見てみたい」
と思いながら生きているそうです。



私たちは目が見えなくなった
ことが一度もない、


という状況にありながら、
目が見えることに対して、


全く感謝をしたことがない。
ほとんどの人が、


目が見えるのが
当たり前だと思って
感謝をしていない。

目の見えない状態で生まれてきた人は、
とにかく一瞬でも見えたら、

どれほど感謝ができるでしょうか。
「目が見えたら感謝をしたい」と


言いながら生きていて、
それが叶わない人もいる。


しかし、私たちは、
ずっと目が見えているにもかかわらず、


目が見えることに感謝するどころか、
「あれよこせ」
「これよこせ」

「あれ欲しい」
「これ欲しい」
と言い続けている日々である。


それを一言で言うと、
「夢や希望に満ち溢れた生活」と言います。


99パーセントの人は、
このような洗脳を受けてきました。



目が見えることに
感謝をするのではなく、


足りない物を
どんどんリストアップして、


手に入れなければ幸せじゃない、
という人生を教え込まれてしまった。



もし、今、
自分がどれほど幸せであるか、
ということに気が付いたら、


自分の口から不平、不満、愚痴、
泣き言、悪口、文句は出てきません。



「自分がいかに恵まれているか」
ということが一つ。

「自分がいかに幸せであるか」
ということが一つ。


そして、


「いかに有り難い状態で生きているか」
ということに気が付くのです。


私は皆さんを、
幸せな状態に誘ったわけではありません。

この本を読むと
前と、

この本を読み終わったときの
囲まれている状況は、何一つ違っていない。


しかし、私は「幸せは感じるだけである」ということをお伝えしました。

その間に皆さんは、「ああ、幸せは感じるだけだった」


「今までの自分は、幸せを感じなかった。
幸せを手に入れようと思っていたのに、


実は幸せの真っ只中にいた」と思うかもしれません。
海に育った魚は、海の存在を一生知りません。


「海は広いな大きいな」を歌っている釣り人に
対して、「私」も海が見てみたいと思う。



それで、その釣り人がかかわっている物体に
パクッと噛み付くと、何か見せてくれそうな気がした。




だから噛み付いた。
そしたら釣り上げられた。





釣り上げられて海の上2メートルに出てみたら、
初めて海というものがわかった。



釣り上げられた魚が、「私」。
釣り上げてくれた人は、“神”。






釣り上げられた状態を“災難”と言いますが、
これが病気や事故。海は、私たちの幸せそのものなのです。



これを“海の幸”と言います。
「私」は、幸という名の海の中に育った魚であったのです。



私は避けもタバコもパチンコ、マージャン
・・・一切やりません。



週の休みがない、月の休みがない、
年の休みがない、生涯休みがない。




外から見ていて「何が楽しくて生きているのですか」と
聞かれるのですが、



ただ、幸せを噛み締めて生きているだけです。



先日、「幸せの塊の中で生きている」というのは、
まだまだ表現が薄い。



その幸せ感が説明できていないと思いました。



実は、幸せの海に住んでいるのではなくて、
“幸せのゼリー”の中にいたという気がします。




何もしないでも、食べるものを探さなくても、
おいしいものや楽しいものに囲まれている。



幸せのゼリーの中に住んでいることがわかってしまうと、
何かを追い求める気はなくなりました。

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